ヒップホップ界のカリスマ的ラッパー、2パック(2Pac, トゥパック)。彼のCD作品が買取で熱い眼差しを注がれているのをご存知でしょうか。1996年、2パックが凶弾に倒れてから30年近く経とうという今もなお、その人気は衰えることを知りません。何故そこまでの人気を彼は時代を超えて集めているのか。
エコストアレコードが彼の生涯を紐解きます。
知られざる2パックの生涯
2パックは1971年6月16日、アメリカ・ニューヨーク州ブロンクスで誕生。本名はTupac Amaru Shakur(トゥパック・アマル・シャクール)といいます。「Tupac Amaru」は古代インカ帝国にいた指導者が由来となり、「Shakur」はアラビア語で”神への感謝”という意味を持つことから名付けられました。そんな2パックを女手一つで育て上げたのが母親、アフェニ・シャクール。彼女は60年代半ばに黒人の人権を求めて活動した団体、ブラック・パンサー党で活躍した人物。党内では主に男性が権力を持つなか、アフェニは女性としては珍しく高い地位に就き黒人の地位向上を求めて闘いました。父親はおらず、アメリカでの黒人地位向上を目的に活動した母親を持つ特殊な家庭環境で2パックは育ちました。
母アフェニはブラック・パンサー党で活動していたと知られると雇い主から不当に解雇されてしまうこともあり、2パックの幼少期は貧しさに苦しんでいたといいます。しかし、日々の生活、食事に苦しんでいたのは彼ら家族だけでなく、「黒人社会では皆が貧困に喘いでいる」と2パックは次第に気付くようになります。思春期を迎える、多感な子供時代にその繊細な感性が感じ取った世の中の不平等は、のちの偉大なるラッパー 2パックを築く礎となりました。
88年、2パックがまだ高校生の時に受けた当時の貴重なインタビュー動画が存在します。その模様はPeter Spirer監督の2002年公開ドキュメンタリー映画作品『Tupac Shakur: Thug Angel ? The Life of an Outlaw』に収録。30分以上にわたりカメラが回ったそのインタビューで彼はこう語っています。
「女の子も車も音楽も好きだけど、僕は社会問題に目を向けたい。ドラッグに関する授業、真剣な性教育、警官による暴行の存在を教える授業、アパルトヘイトについての授業、なぜ人々が貧困に悩まされているかを教わる授業があるべきなのに、実際にはそんな授業は無くてジムで体育なんかをやっている。さあ、バレーボールをやりましょうだなんて」出典:Spirer監督, 『Tupac Shakur: Thug Angel ? The Life of an Outlaw』
その辺りにいるただの17歳の少年とは違う、理路整然とした、成熟した大人のような受け答えがインタビューでは撮影されていました。
10代の頃、2パックは仲間とデュオを組み、MCニューヨークという名でラップミュージックを披露するようになります。そんなとある日、当時カリフォルニア州に住んでいた彼は、世界的に名が知れ渡り始めたヒップホップグループ、デジタル・アンダーグラウンドを知り合いに紹介されます。グループ加入のオーディション日、同グループのリーダーであるラッパー、ショック・Gの前で即興でラップを披露。パフォーマンスが終わるとメンバーへの加入がその場で決まり、2パックは驚きを隠せませんでした。しかし、もっと驚いたのはショック・G本人。後に、先ほどの2002年公開のドキュメンタリー映画作品内でショック・Gは、「彼が披露したラップは教養とストリートの強烈さを兼ね備えたものだった」とその時のインパクトの大きさを語っています。2パックは見事チャンスを自分のものにし、デジタル・アンダーグラウンドの91年発表アルバム作品『This is an E.P. Release』の収録曲、「Same Song」でソロでのラップパートを担当。まさに、ラッパー 2パック誕生の瞬間でした。
2パックに更なる追い風が吹きます。彼のラップ音源が吹きこまれたデモテープが出回り、それが音楽レーベル、インタースコープ・レコード社の目に留まったのです。91年、2パックは同レーベルからデビュー作となる『2Pacalypse Now』をリリース。ソロアーティストとしての活動を展開するようになります。ヒップホップの世界に彼の名が響き渡るきっかけとなったのが、同作に収録されたファーストシングル曲「Brenda’s Got A Baby」の歌詞。ゲットー(貧民街)で生活する12歳のブレンダという少女が望まない赤子を生み、シングルマザーになるという実際の社会問題がもとになった深く悲しい物語。黒人社会を悩ます根深い問題であり、誰も取り上げようとしなかった題材なだけに聴くものに大きな衝撃を与えました。
また、「Trapped」という”ハメられた”というタイトルが付けられた楽曲では、黒人に理由もなく暴力を振るう不正な警官についてラップしました。
”奴らは俺をハメたんだ / 警官から嫌がらせを受けたり、目で追われたり、身元を聞かれずには街中を歩けない / 何もしてないのに両手を上げさせられ、俺を壁に押し付ける / 「お前みたいなどうしようもないやつはいつか地獄に落ちるんだ!」と言われ / 手錠をされ、コンクリートに叩きつける / 警官が俺を殺そうとするんだ /ここは危ないストリート / 「バンバン」と銃声が聞こえてまた怪我人が出た / 発砲して蛮行を働いているのは何を隠そう警官自身なんだ” (2パック「Trapped」の歌詞より、日本語訳は筆者によるもの)
93年にはセカンドアルバムとなる『Strictly 4 My N.I.G.G.A.Z.』を発表。アメリカのR&Bチャートで最高4位を記録するヒットとなりました。その後も2パックの快進撃は止まりません。ジョン・シングルトン監督による映画『ポエティック・ジャスティス』ではジャネット・ジャクソンと共演を果たし、俳優業にも進出しました。
94年11月、そんな彼に突如として悪夢が襲い掛かります。レコーディングのため、ニューヨークのスタジオを訪れたところ、何者かが2パックに向かって銃を発砲。5発被弾した彼は突然のことに驚き、エレベーターを使って死にもの狂いで上階へと逃げました。エレベーターが階について扉が開いた時、さらなる混乱が襲います。そこには2パックとは以前からの友人だったラッパー、ノトーリアスB.I.G.(The Notorious B.I.G.)と彼のレーベル仲間がいたのです。2パックは「裏切られた」と思ったことでしょう。銃弾を浴びた僅か3か月後、包帯を体にぐるぐると巻き痛々しい車椅子姿の2パックは訴えられていた事件の裁判に出席するために出廷。「同意のない性的な接触」で懲役1年半から4年半という刑に課せられ、刑務所へと収監されました。
服役中に3枚目のアルバム『Me Against The World』をリリース。同作は自身初めてとなるチャート1位に輝くことに。収録曲のひとつである「Dear Mama」は、かつて黒人の人権のために闘いながら、2パックを女ひとりで育て上げ、覚せい剤中毒にも陥ってしまったこともある母アフェニへ「ありがとう」という感謝の気持ちを歌った曲。今でも「Dear Mama」は彼を代表する曲のひとつとなりました。
そんな中、牢屋に閉じ込められた2パックに思わぬ話が。昔からの知り合いだったデス・ロウ・レコードのオーナー、シュグ・ナイトから「デス・ロウへと移籍すれば保釈金140万ドルを準備してやる」という交渉でした。2パックにとっては無視できない話です。95年10月、彼はシュグ・ナイトと契約。デス・ロウへと加入するとともに刑務所から解き放たれることになったのです。96年2月には同レーベルから自身4作目となるアルバム『All Eyez On Me』をリリース。『All Eyez~』はヒップホップの歴史の中で初めてとなるCD2枚組での発売となった作品(レコードでは4枚組)。また、ニューヨークでの銃撃事件が発端となり、2パックが憎んだ相手、ノトーリアスB.I.G.を攻撃する歌詞を持つ「Hit’em Up」も収録(ノトーリアスB.I.G.は当時事件への関与を否定していた)。2パックはカリフォルニア西海岸を代表し、一方でノトーリアスB.I.G.はニューヨーク東海岸を代表するラッパーであることからメディアは東西抗争としてテレビや雑誌でこぞって取り上げました。
悲劇は突然起こります。ラスベガスで行われた友人マイク・タイソンのボクシングを観戦しシュグ・ナイトの運転により車で移動中、横付けしたキャデラックから何者かが銃口を向け発砲。2パックは4発の銃弾をその身に受け、医師の懸命な治療の甲斐もむなしく昏睡状態に陥ってから6日後である96年9月13日、まだ25歳という若さにしてひとりの男の物語は幕を閉じたのです。
買取の前にチェックしたい、2パックの人気CD作品
ツパカリプス・ナウ 2Pacalypse Now(ワーナーミュージックジャパン, 型番 AMCY-422)
1992年発売、2パックの記念すべきソロデビュー作。デジタル・アンダーグラウンドの一員だった彼のキャリアが花開いた記念碑的アルバム。
ミー・アゲインスト・ザ・ワールド Me Against The World(ワーナーミュージックジャパン, 型番 AMCY-805)
1995年発売、自身2作目となるアルバム。スティービー・ワンダーの曲「ザット・ガール」をサンプリングした「ソー・メニー・ティアーズ」や彼の代表曲「ディア・ママ」を収録。デジタル・アンダーグラウンドのメンバーや名プロデューサー、イー・ジー・モービーなども参加。
オール・アイズ・オン・ミー All Eyez On Me(マーキュリー・ミュージックエンタテインメント, 型番 PHCR-3036)
1996年発売、ラッパー 2パックにとって4作目となり、彼にとって生前最後のアルバムにもなった作品。ドクター・ドレーやスヌープ・ドッグらウェストコーストヒップホップを代表する錚々たる面子が参加し、新たに加入したデス・ロウ・レコードのレーベル色が色濃く反映された内容。ヒップホップ音楽作品として初の2枚組CDとなった。
当店ではこちらの商品(型番 PHCR-3036)の帯、解説書付き 状態良好品を1,500円で買取いたします。
グレイテスト・ヒッツ Greatest Hits 【Blu-spec CD】(BMG, 型番 BVCP-20032~3)
悲運の死から2年後である1998年に発表された、2パックの人気曲を網羅したベストアルバム。上記の型番のものは完全生産限定盤として2009年に発売されたリマスター版高音質Blue-spec CD。
アンティル・ジ・エンド・オブ・タイム Until The End Of Time (ユニバーサルミュージック, 型番 UICS-1016/7)
2001年発売作品。2パックが生前残した貴重な未発表音源を編集した、死後のリリースとなる新作。2枚組での発売となった。衝撃的な最期から5年後、未だヒップホップのトップとして君臨していた彼の人気は変わらず高く、発表時に大きな話題となった作品。
2パックのCD買取なら迷わずエコストアレコードまで
差別に抗い黒人の人権のために活動した母親に育てられ、繊細な感性をもとに詩をノートに書き綴る。それをヒップホップのビートにメッセージを乗せてラップした稀代の天才ラッパー、2パック。彼の衝撃的な死から30年以上経った今でも、史上最も優れたラッパーとして彼の名を挙げるミュージシャンは多数います。それだけ2パックというひとりのラッパーが残した26年間の生涯はヒップホップシーンに多大な影響を与えているのです。
その人気は衰えることがありません。彼が発表したCD作品の数々も買取では高い注目を集めています。もし、昔購入した2パックのCDがあなたのお部屋にただ眠っているだけだとすれば、それは非常にもったいないことだといえます。あなたの青春を彩った、2パックのCD作品を買取に依頼してみませんか?
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文:福田俊一(Ecostore Records)
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