ヒップホップが好きなあなたは2Pac(トゥパック)というラッパーをご存知ですか?
1996年9月13日、米国ラスベガスで友人だったボクサー、マイク・タイソンの試合の観戦を終えて車に乗っていたところ、何者かに横から複数回発砲され、僅か25年の生涯は突然幕を下しました。
死してなお、伝説的なラッパーとして今もこれ程までに彼がリスペクトされているのは何故なのか。
今回は、筆者が個人的に最も好きなMCのひとりである2Pacを、あなたと一緒にその素顔を覗き見てみたいと思います。
文:福田俊一(Ecostore Records)
【今回の記事作成にあたり参考にした資料】
『Tupac: Resurrection(映画)』Lauren Lazin(監督)|Paramount, 2003年 / 『Tupac: Resurrection 1971-1996』Jacob Hoye/Karolyn Ali(著)|Atria Books, 2008年 / 『Thug Angel: The Life Of An Outlaw(ドキュメンタリーDVD)』Peter Spirer(監督)|Image Entertainment, 2002年 / 『コンクリートに咲いたバラ』Tupac Amaru Shakur(原著), 小野木 博子 (翻訳)|河出書房新社, 2001年
母 アフェニの存在
2Pacの本名はトゥパック・アマル・シャクール(Tupac Amaru Shakur)。
1971年6月16日、米国ニューヨーク州ブロンクスで誕生しました。
トゥパック・アマルは古代インカ帝国の指導者の名前から取ったもので、シャクールはアラビア語で”神への感謝”という意味があるとのこと。
彼の母親 アフェニ・シャクールは、60年代半ばに結成された組織ブラック・パンサー党に22歳の時に参加、党と共にアフリカ系アメリカ人の人権のために政治的な活動をしました。
党内でも性差別があるにも関わらずアフェニは高い地位に就き、米国におけるアフリカ系アメリカ人の地位向上を求めて活動。
2Pacには幼い頃から父親と呼べる人間いなかった為、アフリカ系アメリカ人の自由と権利を求めて活動していた母アフェニは彼に大きな影響を与えました。
ブラック・パンサー党だったハンプトンの「革命家を投獄することはできても、革命を投獄することはできない(You can jail a revolutionary, but you can’t jail the revolution)」という言葉は彼を強く惹きつけたのだといいます。
そんな家庭環境の影響を強く受け、2Pacという一人の男は形成されていったのです。
ボルティモア時代
貧しい家庭に育った2Pacですが、母アフェニは彼が12歳の時にハーレムの劇団へ入団させ表現をする場を与えました。
初舞台は1984年、ニューヨークのアポロシアターで公演された「A Raisin the Sun」でトラヴィス役を演じたこと。
アーティストとして繊細で優れた才能を発揮し始めたのはこの頃からかもしれません。
86年には家族と引越したボルティモアで芸術学校のオーディションを受験、見事合格して入学。
この高校生活で演劇やバレエそして音楽など、様々な勉強をして吸収してゆきました。
また、この頃 MCニューヨークという名前でラップ音楽も書き始めます。
高校生活で数々の演劇や文学作品を学んだ経験は彼に多大なインスピレーションを与え、表現力をより豊かにしたのだと筆者は考えます。
ラッパーはビート(曲)に言葉をのせてストーリーを披露する詩人でもあります。
2Pacが書く詩は他のラッパーとは違い、特別な鋭さというかメッセージ性を感じさせます。それらは生まれ持った感性でもありますが、育った環境に加えて彼自身が養った知性によるものでもあるのです。
貧しさ、差別には屈しない
2Pacが家族と共にニューヨークからはるばるメリーランド州ボルティモアまで引っ越した理由。
それは、母アフェニが過去にブラック・パンサー党で活動していたことが知られると雇用主から解雇されてしまい、一家に収入が無くなって生活できなくなってしまったからでした。
彼はラッパーとしてのキャリアで、アフリカ系アメリカ人社会での問題をメッセージにして発信し続けました。
彼が書き上げた曲には深いものが多く、曲のテーマとなったのは貧困、アフリカ系アメリカ人を差別し暴行を加える警官の不正、同胞全体を励ますもの、女性を励ますものなどが挙げられます。
それでは、そういったテーマを書く原動力となったものは何だったのでしょうか。
それは、そのようなアフリカ系アメリカ人を取り巻く悲しい環境を彼自身が目の当たりにして育ったからです。
貧しく辛い幼少期は、2Pacに「社会を良くせねば」と使命感を与えたのではないでしょうか。
17歳が語った、想い
「若者について」を題材に1988年に撮影されたドキュメンタリーがあり、当時まだ高校生だった2Pacがインタビューを受けている映像が残っています。
その模様は2002年に発表されたピーター・スピラー監督『Tupac Shakur: Thug Angel – The Life of an Outlaw』というドキュメンタリーDVDに収録されています。
そのインタビュー映像の中で彼はこう語っています。
30分以上に渡るそのインタビューが撮られた当時、彼はまだ17歳の高校生でした。
しかし、言葉のひとつひとつに知性と教養を感じさせる彼の理論的な分析と意見や主張は、とてもティーンエイジャーとは思えない内容でインタビューアーの大人たちを感心させていたのが印象的です。
一家はボルティモアからカリフォルニアへ
ボルティモアで過ごしたのち、2Pacは家族と共にカリフォルニア州マリーン・シティーに移り住みます。
母、妹、そして2Pacによる3人のカリフォルニアでの新しい生活も順調には行かなかったようです。
2Pacの実の父親はブラック・パンサー党員だったのですが、誰が父親なのか彼には知らされずに育てられました。
アフェニは当時麻薬中毒に陥っていたため家庭も崩壊寸前になり、彼にとって頼れる存在となるのはまさにストリートで麻薬を捌いて生計をたてて暮らす売人だったのです。
その頃に書いた詩が彼の詩集『コンクリートに咲いたバラ(原題:The Rose That Grew From Concrete)/ Tupac Amaru Shakur(原著), 小野木 博子(翻訳)河出書房新社, 2001年』に載っています。
その詩の題名は『僕たちをバラバラにするな!!!』。
お前が現れるまで3人の関係が崩れたことはなかった
僕たちはまるでひとつに溶け合ったように
強い絆で結ばれていた
だけど2人がお前をやらなくなると
残ったひとりはすっかり怖気づいてしまった
お前のせいで僕たちはバラバラになってしまったんだ” 出典:P.122-123, 『コンクリートに咲いたバラ』より
当時の荒んだ母の状況が彼にとっていかに苦痛だったかが詩からよく伝わってきます。
彼が書いた詩は見るものに感情を訴えかけてきます。
喜び、怒り、悲しみ、迷い。
真正面から自分と向き合う時間を経て、彼の右手が掴んだペンが、心の奥底から吐き出すように想いをノートに文字を書き綴ったのです。
2Pacの詩を読むと、人間としての弱さだったり苦しみだったりが文面からひしひしと伝わってきます。
家族が貧しいことに変わりなく、2Pacは高校を中退し、生活のために自分で金を稼ぐ必要があったのです。
ストリートで売人の仕事をして稼ぐのではなく、ペンをとって詩を書き、彼はラップで人々の心に訴えかけようとしたのです。
2Pacは強い思いを胸に、新たなステップを踏み始めることになります。
デジタル・アンダーグラウンドにローディーとして加入
まだ10代の頃、MCニューヨークという名で仲間と2人組を結成してラップパフォーマンスをしていた2Pac。
当時、若者たちに”表現の場”を与えていた女性がいました。その女性がとあるカリフォルニア出身のグループへ2Pacを紹介したことで転機が訪れます。
世界的に人気が高まっていたヒップホップグループ、デジタル・アンダーグラウンド(Digital Underground)です。
迎えたオーディションの日、リーダーであるショック・Gの前でアドリブでラップを披露したところ加入が即決定。
それには2Pacも驚いたようですが、ショック・Gはもっと驚いたようです。
その時に受けた印象を、2002年発表のピーター・スピラー監督『Tupac Shakur: Thug Angel – The Life of an Outlaw』というドキュメンタリーDVD内のインタビューでショック・Gは、「彼が披露したラップは教養とストリートの強烈さを兼ね備えたものだった」と振り返っています。
ただし、「90年当時の2Pacのラップは”中の上”程度の実力。なお且つ政治的なテーマが大半で、ラッパーとしてはまだ未完成な状態だった」とも彼は付け足しています。
ローディー兼ダンサーとして加入した2Pacでしたが、またも新たなステージへと招かれます。
1991年リリースのアルバム『This is an E.P. Release』収録の「Same Song」という楽曲で2Pacが大抜擢、パフォーマンスの場を獲得。
曲中最後の一節を任され、それがラッパーとしてのデビューとなったのです。
メッセージ性の強いソロデビュー作を発表
アーティストとしてキャリアの帆を広げた2Pacに追い風は止みません。
彼のラップが吹き込まれたデモテープが出回り、米音楽レーベル インタースコープ・レコードから声がかかったのです。
91年には同レーベルからデビューアルバム『2Pacalypse Now』を発表。ついにソロアーティストとして活躍することになります。
このアルバムについて彼はこう語っています。
同作からのファーストシングルとなったのは「Brenda’s Got A Baby」という楽曲。
題材としたのは、ゲットーで生活するブレンダという名の12歳の少女が赤ちゃんを身籠り、シングルマザーになってしまうという悲しいストーリー。
この曲はR&Bチャートで23位を記録しました。
ゲットーで女性が若くしてシングルマザーになるという社会問題が取り上げられ、ミュージックビデオもその歌詞に沿ったドキュメンタリーのような映像で構成され、聴くものに大きなインパクトを与えます。
ブレンダのような犠牲者がもうでないよう、2Pacは訴えたのです。
このアルバムが発表されて間もなく、彼に屈辱的な事件が起こります。
オークランド市内で信号無視をしたところ警官に呼び止められ、暴行を加えられた上に逮捕までされたのです。
彼はこの時の状況をこう述懐しています。
「Brenda’s Got A Baby」と並んでヒット曲となった楽曲、「Trapped」は不正な警官から暴行を受けた彼の友人の経験を元に制作された曲で、彼自身が体験したものではありませんでした。
しかし、こうして実際に彼の身にも起きてしまったのです。
2003年に公開された映画『Tupac Resurrection』の中で2Pacの実の妹であるセチュワは、「この事件が兄にとっておそらく初めての人種差別経験だっただろう」と語っています。
セカンドアルバム、NYでの銃撃事件
それでも、2Pacは前進し続けます。
93年には2枚目となる『Strictly 4 My N.I.G.G.A.Z.』をリリース。前作はR&Bチャートにおいて最高13位だったのに対し『Strictly~』は最高4位を記録、プラチナ・レコードに輝きました。
同アルバムには彼の人気曲となる「Keep Ya Head Up」や「I Get Around」、そして「Holler If Ya Hear Me」が収録されました。
また、俳優業でもジョン・シングルトン監督の映画『Poetic Justice』でジャネット・ジャクソンとも共演。
ラッパーとしてのキャリアも映画俳優としてのキャリアも順風満帆、かのように誰もが考えていました。
94年11月、彼はとある事件に巻き込まれます。
ニューヨークのタイムズスクエアにあるスタジオへレコーディングに出向いた時のこと。
2Pacは突然何者かに銃口を向けられ、5発の銃弾を撃ち込まれてしまいます。襲った犯人は彼から金目の物を奪い取りスタジオのビルから逃げて行ったそうです。※犯人は未だに捕まっていない
不幸中の幸いにも2Pacは九死に一生を得、無我夢中でエレベーターで上の階に逃げます。
しかし次の瞬間、彼は自分の目を疑います。
エレベーターが上の階に着き扉が開くと、そこにはかつての友人 ノトーリアスB.I.G.(The Notorious B.I.G.)と彼が在籍するバッド・ボーイ・レコーズの重要人物たちが立っていたからです。
2Pacはとてつもない恐怖を感じ、バッド・ボーイ・レコーズの連中に「裏切られた」と思い込んだことでしょう。
その3か月後である1995年2月、銃撃される前に女性への暴行で訴えられていた事件の裁判で彼は車椅子を使って出廷。
その裁判で彼は「同意のない性的な接触」をしたとして有罪となり、懲役1年半から4年半という判決が下され刑務所に入りました。
服役中に発表された3枚目
刑務所で服役している間に3枚目となるアルバム『Me Against The World』がリリースされました。この作品で米国の音楽チャートで自身初となる1位に輝きました。
収録曲のひとつに彼を代表する「Dear Mama」という楽曲があります。
アフェニの麻薬中毒によって親子関係も悪化した時期もあった2人ですが、女手一つで子供を育て上げた母アフェニへの感謝の気持ちが詰め込まれた、人間味溢れる歌詞が魅力的です。
自分の母親へ「いつもありがとう」と改まって伝えるのは、意外と恥ずかしくて出来ないと思う男性も多いのではないかと筆者は思います。
しかし2Pacは、その4分40秒まるまる1曲、大切な母親への「ありがとう」というメッセージを愛で優しく包み込みました。
獄中の2Pacへ届いたある誘い。そして悲劇へ
獄中の2Pacへ思ってもみなかった話が舞い込みます。
以前からの友人だったデス・ロウ・レコードのオーナーであるシュグ・ナイトから持ち掛けられた話、それは「自分のレーベルへと移籍すればその見返りとして保釈金140万ドルを用意する」というもの。
2Pacにとっては無視できない”商談”でした。
95年10月、彼はデス・ロウ・レコードと正式に契約を結び、刑務所での悲惨な毎日から解放されました。
そして翌96年2月、キャリア4枚目となるアルバム『All Eyez On Me』を発表。この作品はヒップホップ音楽史上初となる2枚組のCDとなりました。(LPレコードは何とも豪華な4枚組仕様での発売)
同作品はチャートを駆け上がり、音楽チャート1位を記録。
また、ニューヨークでの銃撃事件の犯人だと2Pacが疑っていたノトーリアスB.I.G.とバッド・ボーイ・レコーズを暴力的に非難した曲「Hit’em Up」をリリース。かつての友人への憎しみを露にしました。
2Pacは西海岸・カリフォルニア、ノトーリアスB.I.G.はニューヨーク・東海岸であることから当時メディアに東西抗争と煽られ、両者間の確執が大きく取り上げられました。
米国の音楽専門チャンネルであるMTVのインタビューで2Pacは、
と加熱する報道をメディアに自重するよう訴え掛けました。
しかし、事態は最悪の結末へ。
そのテレビインタビューから3日後のこと。
ラスベガスでマイク・タイソンのボクシングの試合を観戦を終え、車で移動していたところ、横に付けた別の車から何者かが発砲。2Pacは4発の銃弾を浴びます。
9月13日、昏睡状態に陥ってから6日後、2Pacは25歳の若さでこの世を去りました。
2Pacの音楽を考察する
ヒップホップ、ラップ・ミュージックにおいて歌詞の役割は重要な要素だと筆者は考えます。ビートよりも大きな意味すら持つと思います。
これまで解説したように、2Pacはキャリアを通してリアリティー(真実性)と正面から向き合い、己の信念を曲げることはありませんでした。
つまり、ゲットーでの貧しい生活や、人種差別問題、アフリカ系アメリカ人に暴行する不正警官、そして彼自身の葛藤や不安、喜びや悲しみを赤裸々にラップで表現し続けました。
彼の詩は真実性に溢れているからこそ、そのメッセージが聞く者の心に直接訴えかけてくるのだと思います。
まさにそれこそ、2Pacというラッパーが特別な存在であり、彼の死から25年経った今でも世界中のファンから愛されている理由なのだと私は考えます。
生前に発表された彼のアルバムはたったの4枚でしたが、驚くべきことに死後に発表されたアルバムはその倍、8枚以上にものぼります。2Pacは自分が早く死ぬことを知ってか知らずか、数多くの楽曲を制作し録音していたのです。
世に出なかった音源は未発表曲という形で母アフェニの手に渡り、新たに設立されたレコード会社AMARU Entertainmentから新作として送り出された作品も複数あります。
息子の魂は、今もそしてこれからも、愛する母の手元にあるのです。
彼が高校生の時に撮影されたインタビュー。
とても17歳とは思えない、論理的な意見を答え大人を感心させた2Pacは収録の終わりを告げられる間際、
笑顔でそう答えると、彼は席を外したのです。
筆者: 福田俊一(ふくだ・しゅんいち)
FTF株式会社 制作部/販売部兼務。買取部門のコラムやnoteのほか、販売部門の特集コラムを執筆。大学卒業後にレコード収集に興味を持ち、約15年かけてジャズレーベル、ブルーノートの(ほぼ)すべてのLPをオリジナルで揃えた。
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