ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)は20世紀最高の女性ジャズシンガーと呼ばれることもあるほど、高い実力のある人物です。そして、圧倒的な歌声によって大勢の人を魅了したと共に、数多くのアーティストに影響を与えました。そのビリー・ホリデイが、どのような人生を送ったのか、彼女のどういったレコードが買取市場では人気なのかを解説していきます。
ビリー・ホリデイの経歴を紹介。波乱万丈の人生を送った歌姫
ビリー・ホリデイは、1915年に、アメリカの都市フィラデルフィアで誕生しました。ただ、ビリーが誕生した時、父親のクラレンスが17歳、母親のサディが19歳という幼さでした。両親は結婚していなかったため、ビリーは母子家庭で育ちました。しかし、母親であるサディも、ビリーの面倒を見ることがほとんどなく、母親と暮らすことはほとんどありませんでした。ビリーは、母親の親戚間をたらい回しにされてしまいます。その結果、ビリーは学校に通うことが難しくなり、保護者のいない未成年となってしまいます。そして、女子のみが入る、カトリックの寄宿学校で生活することとなります。
その後、母親のサディに引き取られたビリーは、ニューヨークのハーレムシティにあるナイトクラブで、歌の仕事を始めます。サックス奏者であるケネス・ホランと2人で、クラブを巡りながら歌い、収入を得る日々を送りました。そのビリーに目を付けたのは、音楽プロデューサーのジョン・ハモンドです。クラブに偶然居合わせたハモンドは、当時17歳だったビリーの歌声に可能性を感じ、クラリネット奏者であるベニー・グッドマンとの共演によるレコードデビューを果たさせています。
ジョン・ハモンドに才能を見出されたビリーは、ベニー・グッドマン以外のアーティストとも次々と共演していきます。その中でも息が合ったのは、サックス奏者であったレスター・ヤングでした。夜通し飲み歩くほどのビリーとヤングの仲の良さは、2人の晩年まで続きます。
ただ、レコードデビューを果たしても、すぐにヒットを起こすわけではなく、不遇の時を過ごします。そのようなビリーが一躍メジャーなシンガーに成り上がったのは、1935年、「What a Little Moonlight Can Do」を発表してからです。ジョン・ハモンドの企画で作られたグループによって演奏された楽曲で、ベストセラーとなり、シンガーであったビリーも一躍メジャーな歌手となりました。そして、ビリーは、「What a Little Moonlight Can Do」のレコーディングメンバーの1人であったテディ・ウィルソンとタッグを組み、活動を続けていきます。
ビリー・ホリデイの人生が波乱となった原因には、人種差別問題があります。ビリーは、テディ・ウィルソンとのタッグとして活動しながら、有名なバンドとも共演をしています。しかし、白人のバンドに黒人のビリーが参加するということは、差別意識の強い20世紀前半のアメリカでは拒絶されてしまうのが実情でした。シンガーとしてすでに有名であり、確かな実力もあったビリーは、人種問題によって足を引っ張られることとなります。
人種差別によって悩まされていたビリーは、高校教師が作詞作曲をした楽曲「奇妙な果実」に出会います。そして、人種差別に反対する内容であったため、マイナーなレコ―ディング会社からしか出せなかったにもかかわらず、ビリーの歌う「奇妙な果実」は大ヒットします。その後、しばらくはシンガーとして順調に成功していたビリーですが、トロンボーン奏者であるジミー・モンローと結婚したことで、人生の歯車が狂い出します。モンローは薬物の売人でもあり、ビリーを薬物の虜にしてしまいます。その結果、業界内でのビリーの信頼性は失われ、1947年には逮捕されてしまいます。そして、ビリーは約1年間、刑務所で過ごしました。
刑務所から出所したビリーは、薬物から抜け出すことができませんでした。さらに、服役中にニューヨークでの労働許可証が失効してしまいます。そのため、仕事をする場所が限られ、ニューヨークからアメリカの西海岸へと移ります。しかし、ニューヨークで働けなくなったからといって、そのまま没落したわけではありません。かつての恋人ルイ・マッケイをマネージャーに迎え、アルバム「ビリー・ホリデイ・シングス」を制作するなど、精力的に活動します。そして、昔からの夢であった、ヨーロッパツアーを成功させています。
しかし、ビリーは薬物で2度目の逮捕をされ、アルコールと薬物によって身体が蝕まれていきます。そうして、死に近づくと共に、シンガーとしての実力を失ってしまいます。また、2度目のヨーロッパツアーは、野次によって途中で切り上げなければならなくなってしまうなど、悲惨な目に遭います。その上、追い打ちをかけるように、かつての友人だったレスター・ヤングが亡くなってしまいます。そのヤングの後を追うように、4ヶ月後にビリーも亡くなります。死因は腎臓の感染であり、44歳という若さでした。
ビリー・ホリデイは、幼少期からシンガーとして活躍するようになって以降も、波乱万丈の人生を送っています。ビリーのかつての力強く、リアリティのある歌声は、その人生に基づくとされています。そして、亡くなってからおよそ40年が経過した2000年には、ロックの殿堂に入っています。また、現代において、サラ・ヴォーンとエラ・フィッツジェラルドと共に、女性のジャズボーカリストの御三家の1人とされています。
買取市場で人気があるビリー・ホリデイのレコードとは?
ビリー・ホリデイは、20世紀前半に活躍した、非常に古い歌手です。しかし、現代でも女性ジャズシンガーの御三家として数えられるなど、ジャズ好きの人からは高い人気を集めています。そして、代表作である「奇妙な果実」のジャケットは、ジャズを知らない人でも、大勢が目にしたことがある有名なイラストです。その人気も合わさって、買取市場での需要が高いです。また、晩年に制作されたアルバム「レディ・イン・サテン」も、ビリーのファンからの評価が高く、買取市場での人気があります。
ビリー・ホリデイの名盤2つをご紹介
ビリー・ホリデイは、シングルとアルバムで複数のレコードを世に出していますが、その中でも買取市場で人気な2枚をご紹介します。
奇妙な果実 Billie Holiday, Commodore 型番:FL 30,008
ビリー・ホリデイが世に出した作品の中で最も有名と言っても過言ではないのが、「奇妙な果実」です。黒人差別に反対する歌詞で、差別によって暴行を受けた黒人をテーマにした、非常にダークな内容となっています。この曲によって、ビリーは、現代でも差別に立ち向かった歴史的な人物として扱われることがあります。
レディ・イン・サテン Lady In Satin, Columbia 型番:CL 1157
ビリー・ホリデイのアルバムの中でも人気が高いのは、「レディ・イン・サテン」です。薬物と酒に溺れた後のビリーが歌唱している楽曲が収録されていて、世に出た当時は、声が枯れたり力強さがなかったりするなどで、多くの批評を受けています。けれど、現代では、良い声の枯れ具合ということで、高い評価をしているビリーファンが大勢います。
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